私はかつて書道を習っていた。先生は柿沼翠流(かきぬますいりゅう)先生だった。
始めたのは私が小学生の頃だった。その教室に通い始めたきっかけはもう忘れてしまった。私には姉がいて、公文もピアノも姉と同じように始めたし、姉が切り開いた道を不自由なく歩いていた。それが当たり前だと思っていた。しかし、この書道教室は私が初めて1人で始めた習い事だった。私が覚えていることは、母と2人教室に足を踏み入れて、初めての場所・初めての先生を前に窮屈そうに話す母の姿である。いつものようであれば私が入学する時には先生や教室をすでに知っている母も、この書道教室に関してはそうではなかったのである。
実際、この書道教室には他にはない雰囲気が漂っている。教室に一歩入ると、そこに漂う空気を乱してはいけないような気持ちにさせられる。それは、建築が作り出すものなのか、匂いが作り出すものなのか、先生が作り出すものなのか、今となっては分からない。
曇りガラスの引き戸を少し持ち上げながらカラカラと開ける。引き戸は2つあるが、片方を無理に開けようとすると「そっちじゃないよ」と言われてしまうので注意する。戸を開けると、猛烈な墨の匂いと同時に柿沼先生の笑みと目が合う。先生は、座布団と半紙と新聞の中で、座を崩している。私のすぐ足元に、青い瞬足のシューズや学校指定の白いスニーカが並んでいるので、自分のも置く。
玄関から一段上がると、25畳程度の畳の床が伸びている。手前の半分は灯がついており、奥の半分はいつも暗い。手前の空間には正座の高さの会議机が並び、それぞれの机には座布団が2枚ずつ置かれているので、空いているところに座る。急いで習字道具を用意する。玄関からここまで、先生はずっと見ているので、余計な動きはできない。忘れ物をしたり、筆が墨でカチカチだったりしたら、この世の終わりを感じるのである。
はじめは先生が書いた楷書を手本に書いていたが、だんだんと行書や隷書(れいしょ、中国のカチッとした字)を書くようになった。とくに行書や隷書については、漢文が書いてある資料の中から好きな字を選んで、先生がそれをもとに半紙サイズに手本を書いてくれる。中でも隷書はとても好きで、左斜めに筆を入れて、まっすぐ横に線を引くことが、新鮮で、リズムが感じられて楽しかった。
生徒は誰もしゃべらない。先生は生徒一人ひとりの顔を見つめ、書が出来上がって見せに来るのを待っている。そのうち、先生が教室に向かって短い世間話を投げかけたりする。生徒は筆を置き、短い時間だけ正座を崩して、ニコニコ先生の話を聞く。張りつめているのに、暖かい、こんな空気は他にはない。
出来上がった書を見せに、先生の前に正座する。先生は何も言わずに筆を取る。真剣な顔で書きはじめるので、怒られるのではないかといつも思っていた。しかし、怒られたことは一度もなかった。いつも、朱色の墨で「うまい!」「プロになれ!」と半紙の隅に書きながら、いつもに増した笑顔で「うまい!」「やったな!」と言ってくれるのである。「やったな!」は私だけに言うのではなく、私が自席に戻った後も、生徒が字を書いている空間に向けて繰り返す。それは私でない生徒の目を見ながら、大きなひとりごとのように言うこともあったので、不思議な時間であった。そのひとりごとは、静かな教室でガッツポーズをとることができない小中学生の気持ちを代弁するようなものだった。気恥ずかしかったが、とても嬉しかった。他の生徒が褒められているときも、すごく嬉しかった。生徒たちはそれぞれの机で、いったん筆を止めて、そのひとときを静かに共有した。
教室が終わりの頃になってくると、先生はふいに奥のほうにいく。帰ってくると、カステラを持ってきて、1人ずつ配ってくれる。底面に紙が付いた、ザラメの黄色いカステラ。墨の手も気にしないで、座を崩して静かに食べながら、先生の話を聞く。習字の合間に、畳と座布団の上で、手で食べるカステラは、どんなおやつよりもおいしい。
書道教室は、部活や受験を理由にやめてしまった。しかし何度部屋の掃除をしても書道の道具は捨てられなかった。
社会人になり、自分の時間がまたできてきて、近くに良い書道教室を見つけた。そういえば私は書家の先生に習っていたなと思い、柿沼翠流先生を検索した。先生のホームページに、2019年に他界なさったことが書かれていた。よく知っている笑顔の写真が添えられていた。
もう一度、書道を始めてみようと思う。期待してくださっていた先生への恩返しと、途中でやめてしまったことの後悔と、あの教室だけが持つ幸せな雰囲気を忘れないように。
