一ヵ月の中で最も精神的に落ち込んでいるとき、椅子に座った上司の目がチラと私の胸に移り、心が死ぬ。私は女として生きることに向いていない。
私の仕事は研究職なので、力仕事でもないし、頭とPCさえ使えれば問題ない。性別は関係ない。そんな職場でも、自分が女であることを痛いほど実感させられる。
まず、私を一目見ただけで、あなたはあそこの部署が向いていると思う、と言われたことがある。私の専門もやりたいことも、名前も知らないのに。勧められた部署は、女性が多い部署だった。理由はそれだけのようだった。結局違う部署に配属されたのでもうどうでもいいけど、失礼な話だと思わない?これと似たような経験はいくつもあって、初めて話す人に「ああ、あの部署には〇〇(女性)さんもいるし、(話が合うかも)ね」とか。「は?なにが?」と思う。でも…これは私のほうも変なのかもしれない。普通は「女性がいるから安心だ」と思うものなのかもしれない。でもやっぱり、「女はこう思うもんだ」という偏見が、私の専門ややりたいことに勝るなんて、変な話だなあと思う。
あと、発表などの順番で、名前に関係なく最後に回されることはとても多い。なんにも考えずに順番を決めるとかなりの頻度で私が最後になるのだから、決める人の無意識の領域に女性差別があるのだろう。意識的に順番を決めたいので、平等になるように、あいうえお順にしましょうよ。そう思って私が順番を決めたとき、私→男→男→…のように、唯一の女性である私が最初になってしまったことがある。全く問題ないはずなのに、私自身が「女が最初で変に思われないかしら…」と不安になってしまった。これは、私の中にも「女が男より先なんて変だ」という差別の意識があるということを表している。
男性上司「実際は男よりも、女性のほうが女性に厳しいよね。おばさんだから、若い人に嫉妬するのかね」。「あ~そうなんですね~」と流しながら、そんなこと言う人本当にいるんだ!とちょっと興奮した。この人が言っていることも、こんな考えを口に出すことも、これを部下の私に職場で言うことも、すべてが間違っている。(こういう人は仕事もできないし、出世もしないのだと思う、そうあってほしい)。 でも、「女性は女性に厳しい」は、なんとなく思い当たることがある。それは、嫉妬などが理由ではないのだと思う。別の女がしたミスは、巡り巡って女である自分への偏見として返ってくるからである。
海外の医療系のドラマで、ある外科医が、研修医の無礼な言動に対し、厳しい罰を与えるというシーンがあった。その外科医と研修医は、両方が女性である場合も、両方が黒人男性である場合もあった。厳しい罰を与える理由として、あなたのミスは巡り巡って私の妨げになる、という意味のことを言っていた。「あなたがミスをしたおかげで、同じ女(or colored)である私も、女(or colored)はこういうもの、こう扱ってもいいものというように認識されてしまう。簡単には許せない」。「The Good Doctor」というドラマで、4シーズンを一気に見た。「チャーリーとチョコレート工場」の主役の男の子を演じたFreddie Highmoreが主役。とても素敵。
私という個人の前に、女という属性が来ることが悔しくて仕方がない。男性と比べると、解像度とか認識レベルに次のような差があると感じる。
同僚(男) 「名前 >所属 >専門 >…」
私(女) 「女 >名前 >所属 >…」
実際、「女性宇宙飛行士」とか「女子高」とかいう言葉があるし。私が成功しても、失敗しても、どう生きようとしても、女という属性が勝るのである。これが、ガラスの天井なのである。いや、そんなの関係ないよと言い聞かせて、忘れようとしても、周りを見渡せば嫌でも思い知らされる。窓際の上長席は、男性で占められている。
ああ、そっか。だから女子高は人間として生きている感じがしたんだ…。高校生活は天国のようだった。各々が勝手に生きて、勝手に早弁して、勝手に勉強して、昼休みになってもほとんど全員が自分の席でご飯を食べた。一匹狼がたまたま同じ部屋に集まり、交流し、互いを認め合うような学校だった。みんなが自分の楽しいを持っていた。それができたのは、女子高の中で、女という属性を忘れられたからなんだ…。私が数学が得意だったことも、絵を描くことが好きだったことも、「女なのに」「女だから」は関係なく、ただ「私」がそうだったのである。その生き方が許されていたのである。
女性差別の意識は、男性にも、女性自身にもある。私にもあるから、こういう文章を書くのだと思う。どうすれば幸せかを考えながら、自分が自分のロールモデルになっていくしかない。家の全身鏡を見ながらPerfumeとBaby Metalを踊ってみたら気分が晴れたので、また明日からも頑張る。
