海に近い場所に引っ越して、気づいたことがある。私は結構、海が好き。
家から5kmほど走り、潮の匂いを感じた頃には、松の木が並ぶ砂浜が見えてくる。ランニングシューズのまま砂浜を少し歩く。ところどころに背の低い緑も見えて、雀が隠れているのを見つける。暑い日には長い時間を過ごせないけど、ちょうど陽が沈みそうなときには、とてもいい。
あるとき、いつもの道を走りながら自分の腕を見ると、汗が球のようにいくつも張り付いている。頑張っている感じがして気持ちいいから、いつもそのままの形で放っておく。何気なく匂いを嗅いでみると、海の匂いがする。まだ、海岸は遠いのに…。
ふと、考えてみる。今まで私が「海の匂い」だと感じていたものは、潮の匂いではなく、「日焼け止めと汗の匂い」だったのかもしれない。思い出すと確かにそうだ。友達と渓谷を歩いているときにも、私は海を感じていた。
意外とそうなのかもしれない。私が海が好きと言うとき、実際に海水に浸かっている時間のことを指してはいない。水着やタオルや日焼け止めを余計に大きなバッグに詰め込む瞬間や、海で食べようと言って道すがら買うハンバーガの紙箱の匂いや、足元の砂が作る三角の影の連続、肌と水着とパラソルが反射する光。好きってとても曖昧で、曖昧でも好きと言っていいのだと思う。「日焼け止めと汗の匂い」だけで海を感じられるように、これからも私にとっての海は広がっていく。
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「あなたに何か言おうと思ってたんだけど忘れた」と同僚に言われる。私はこれも好き。私が知らない場所で私のことを思い出してくれたこと、近いうちにまた私のことを思い出してくれるであろうこと。他人の考えていることなんて全く分からないけど、その人の脳のほんの少しの領域で私に関することが保留されている状態が、少し嬉しい。しかしこうして読んでみると、気持ちの悪い考え方かも。言語化の功罪を感じます。
