雪が積もり、また降って積もり、ひざの上まで積もった頃に、社員証を無くした。家を出るときに身に着けて、会社の入り口でそれがないことに気づいた。家の駐車場で落としたことは確実だった。雪に埋もれた車を動かすために、慣れないスコップで除雪作業をしているうちに、落ちたのだろう。その日は仮社員証を借りて過ごし、紛失した事実を忘れ、安定した精神で仕事ができた。この正常性バイアスは、帰宅して駐車場を再び見たときにはすっかりなくなってしまった。一日中降り続けた雪は、朝に格闘した足跡もタイヤ痕もすべて覆いつくし、穏やかな静けさで私を待っていた。絶望するには十分な景色だった。
まだ雪が降り続く休日。絶対に見つからないと思いながらも、何となく雪かきをしてみる。他の人の協力もあって、駐車場の隅にはいくつか雪の山ができていた。万が一、あの山のどれかに埋まっていたら、春の雪解けまであと3か月くらいだろうか、社員証は見つけられないだろう。雪が解けた駐車場にぽつんと残された、顔写真付きの社員証の映像を想像してしまい、頭から離れない。諦めて再発行まで仮社員証を使えばいい話なのにね。無理やり出かけたり運動したりしてみたけど、30%くらいは憂鬱だった。
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ときどき、和食を作って食べたくなる。炒め物でなくて、卵焼きやほうれん草の胡麻和え、おくらに鰹節を和えたり、干物に大根おろしを添えたりする和食。一度作ると、こういう和食を作るときに出る洗い物の多さに驚いて、しばらく作らなくなってしまう。また忘れた頃にたくあん1本とか買いたくなる。
そうやって久しぶりにチンゲン菜を切るたびに、私は母のことを思い出す。
小さい頃、台所で野菜を切っている最中の母に話しかけて、「何か野菜をスタンプしたい」と頼んだ。学校の宿題だったのか、画用紙とインクを渡されていた。私は繊細な子供だったので、料理中に迷惑じゃないかなと思っていたし、学校の宿題なんかをわざわざ母に相談することも新鮮だった。母は「これはどう?薔薇みたいになって面白いよ」と言って、そのとき丁度切っていたチンゲン菜の根元を手渡した。食卓にいくつか持っていき、実際に押してみると、自分では描けたことのないほど整った薔薇の形が現れた。母にとっては造作ないことだったかもしれないが、私にとっては魔法だった。印象的な思い出なのに、しっかりした根元をザクっと切って、その断面を見るまで、このことを思い出さないのは不思議なことだ。

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塾講師をしていたときに、小学校低学年の女の子のしゃっくりが止まらないときがあった。私は横隔膜の痙攣を止めるコツを知っていたので、その子に「全部息を吸って~、全部吐いて~…止める!ギリギリまで!」と言いながら一緒にやってあげた。無事にしゃっくりが止まり、一連の様子を見ていた別の女の子が「魔法みたい…!」と私を見つめていた。私もいつの間にか魔法を使えるようになっていた。
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明るい陽がさしてきて青空が見えるようになっている。雪解けの滴り、雪かきの音も聞こえてくる。こんな日には、私も外で身体を動かしたい。そう思ってスコップを持ち、雪を動かしてみる。心地よい汗をかく。ふと車の下を覗き込むと、社員証と目が合う。映像で想像した通り、水浸しのアスファルトに四角形が際立っていた。
こんなときにもあまのじゃくな性格は発動する。やっと見つけた社員証に、飛び上がるほど興奮した気持ちを抑え、一旦は気づかぬ振りをして、関係ない場所の雪かきを始めたりする。買い物で、もう買うものは決まってるのに敢えて別のものを触って感想を言ってみたり、小銭を落としてもお会計が落ち着くまでは拾いに行かなかったり、急いで乗ろうとした電車の扉が目の前で閉まったときに「この電車はのるつもりじゃなかったです」という顔をしたりするのと同じだ。なんの茶番だ。
社員証を拾い、雪かきを続ける。癖になってしまったのか、「何か大切なものを探しながら雪かきをする」という感覚が、しばらく抜けそうにない。
