岐阜出身の先輩が「岐阜には何もない」と言っていたことをふと思い出して、行ってみることにした。
まずは興味があった古道具屋さん。アフリカ民族のスツールの展示がされており、四足脚の生き物のような椅子が大きいものから小さいものまで積み上げられていた。そこでは野草茶の喫茶も提供しており、アンティークの机でお茶を飲めるようだった。
家具を見ているつもりだが、結局私が興味があるのはそこにいる人たちだ。飲食店を経営しているらしい男女がお皿をまとめ買いしたり、旅好きらしい男性が一眼レフでお店の様子を撮影していたりしていた。特に印象的だったのは、1人の女性がお茶を飲んでいる姿だ。誰かと話すわけでもなく、どこを見るわけでもなく、「座ってお茶を飲む」というゆっくりとした時間を享受している様子がとても素敵だった。
続いて岐阜市立中央図書館へ、建築を見に行った。木陰にいるような感覚を想起する円形の閲覧スペースや、低い背丈の曲線的な本棚をくねくねと歩くことが楽しかった。そこでもやはり印象的なのは人の姿だ。大人から子供まで、本に夢中になっている人の姿は好きだ。
商店街を散歩したり、岐阜のジムにも行けて、充実した1日だったなと思いながら帰り道を運転し始めると、運転席の窓の外側に4cmくらいの蜂がいるのに気づく。日も暮れてきたし、ここで寝ることを決めたのかなと想像する。その虫は高速道路の強い風に煽られ、眠ることもできないままひたすら耐え、2時間ほど一緒に移動した。
私は、一心にしがみついているその虫の姿を見ながら、一方の自分を俯瞰した。私は右手右足で運転しながら、左手でサンドイッチを食べ、音楽に合わせて歌い、左足でリズムを刻んでいた。何をこんなに忙しくしているんだ!
最後に集中したのはいつだろう。
例えば私は「じっと音楽を聴く」だけのことをした覚えがない。音楽を聴くことを副次的な目的として、家事を行い、ランニングに出かけ、ドライブをする。受験生の頃から、音楽を聴きながら、それを口ずさみながら、数学の問題を解いていた。その姿を見た父は、「音楽を聴いていなければ第一志望に受かっていたと思う」と2回は言った(私はそうは思わない)。じっと湯船に浸かることが難しく、「湯船に浸かる」ことを口実に、風呂場に映画や飲み物やフルーツを持ち込む。
岐阜の旅行中も私は集中していなかったように思う。頭の中の80%くらいはつねに未来のことを考え、ここでない場所にいる。古道具屋では、いつものごとく店内を周回しながら、今後のブログの記事を考えたり、家具の使い道を想像してみたりしていた。図書館の近くで書道のギャラリーを見つけて入り、「今後の参考になる」字を探していた。いまの生活、いまいる場所、いま体験していることに集中できない。その根底にあるのは「私の居場所はここではない」「私はこうあるべきだ」という生産的社会で獲得した向上心のようなものかもしれない。
マインドフルネスという言葉がある。過去や未来への思考を止め、今の瞬間に意識を集中し、評価や判断などせず、心身の状態や周囲の状況をありのままに受け止めることを意味する。これは向上心や生産性と相反するものではない。(一見するとマインドフルネスに効果を期待するのは矛盾しているようだが、集中力を高めることで結果的に生産性が増すと考えられている。)
私にも、マインドフルネスができているであろう時間がある。自然科学を研究しているときや、自由に絵を描いているとき、ピアノを弾いているとき、天気のいい日に芝生に寝そべっているときだ。
精神を集中してさえいれば、何をしているかは重要ではない。大事なことも、大事でないことも、あなたの関心を一手に引き受けるため、これまでとまったくちがって見えてくるはずだ。
The Art of Loving / Erich Fromm
簡単に聞こえるけど、実際やろうとすると難しい。すぐに頭を埋めようといろいろなことを考え始めてしまう。古道具屋で見た女性のように、図書館で見た立ち読みしている男の子のように、人生の中で「今を享受する」時間を増やしてみたら、焦燥感から解放され、愛すべき人を愛し、今の自分をもっと好きになることができるだろう。
